2015年も年の瀬を迎え、いかがお過ごしでしょうか。福岡は急に冷え込み、来週はまた暖かくなりそうで、これも地球温暖化の異常気象かと案じたりもします。ちょうどCOP21が開催され、気候変動対策は人類にとってまったなし。という今日この頃ですが、恒例の2015年回顧の第0回を兼ねて、福岡サウンドデモ裁判を振り返ってみました。
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脱原発デモ、安保法案反対デモとデモが変わり、進化している。デモという、民主主義にとって不可分な「表現の自由」は、国民の多数意見に従いたくない権力者にとって邪魔な存在だろう。市民が自分の意図したデモを実施するうえで画期的な判決が確定した。
●意図したデモができるように教示する警察の義務
「警察にデモの妨害をされたくない。次世代のために、デモにもっと自由を」と、弁護士を付けずに起こした本人訴訟が、大きな実を結んだ。「サウンドデモ」と呼ばれるデモをめぐって、「表現の自由」が行使できるようにするため警察官が負っている義務を示し、その義務に反したとして、福岡高裁(白石哲裁判長)が福岡県に損害賠償を命じた判断が確定したからだ。
この裁判は、2011年5月8日に福岡市で開催された脱原発サウンドデモの道路使用許可にあたって、申請者らがトラックの荷台にスピーカーや音響機器を積んでDJらが荷台に乗車し音響機器の操作やパフォーマンスなどの情宣活動をすると説明したにもかかわらず、福岡県警中央警察署の警察官らによって、荷台に乗車していたDJらの下車や、幌をかぶせることなどを命じられ、主催者が意図したデモができなかったのは「表現の自由」の侵害だとして、損害賠償などを求めたものだ。原告は、脱原発を伝えるために初めてデモを企画した市民らと、道路使用許可申請者の福岡地区合同労組。1審・福岡地裁に続いて、8月31日の2審・福岡高裁も福岡県に損害賠償を命じた。
確定した福岡高裁判決は、道路使用許可申請に対し、原告が意図している形態のデモ行進を行うためには、別途、荷台乗車許可申請が必要であることを警察官が教示すべきだったと指摘し、職務上の注意義務を怠り、その教示を行わなかったため、原告が荷台に人を乗車させる形態でデモ行進を行うことができないという無形の損害が発生したとして、国家賠償法上の損害賠償責任を認めた。
●警察にデモを妨害されたくない
トラックの荷台にスピーカーなどを載せて、DJが音楽と一緒にメッセージを伝えたり、パフォーマンスをするデモがサウンドデモと呼ばれるようになったのは、2003年のイラク戦争に反対する行動の頃からだ。
福岡では、2004年にサウンドデモが実施され、今ではポピュラーに広まっている。
5月8日のサウンドデモには、約1,200人が参加(主催者発表)し、福島第一原発事故をきっかけに広がる脱原発の大きさを物語った。このデモを企画したのは、道路使用許可申請をしたことのない市民。デモ経験者の支援を受けて、デモの道路使用許可を得ようとしたが、警察官は、荷台乗車許可申請について一切教えなかった。そのため、デモの現場で警察官から「荷台に乗るな」などと命じられ、出発が大幅に遅れ、DJらが車に並走しながら音響機器を操作する状態になった。
原告の1人でイラストレーターの、いのうえしんぢ氏は、「僕たちはデモで『原発いらない』というメッセージを伝えたかった。警察は、DJが荷台に乗るのを禁じたり、トラックに幌をかぶせて市民から見えないように妨害した。当時は、引き続きデモを準備していたので、二度と警察に妨害されたくないと思って、裁判を始めた。自分たちだけの問題だけではなく、デモを初めてやる人たちでも、スムーズに自分のやりたいデモをやれるようになってほしかった」と語る。
●デモ(表現の自由)と選挙は、民主主義の「車の両輪」
憲法第21条1項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。
表現の自由には、音楽、絵画、ファッション、趣味など自己実現に関わる表現の自由と、思想表現や言論など民主主義社会の大前提に関わる表現の自由の2つがある。デモ行進は、移動する集会だといえる。
デモは、選挙と並んで、民主主義にとって「車の両輪」だ。主権者に表現の自由がなければ、選挙は単なる通過儀礼になってしまう。
サウンドデモ裁判の福岡高裁判決は「デモ行進が思想表現のための有効な1つの手段であり、憲法上重要な権利として保障された表現の自由の行使に当たる」と指摘した。同時に、デモをしたいと思った市民には道路使用許可制度に精通していないこともある一方、警察官には職務上、その制度の知識を持っていることが求められていることを挙げて、「(警察官は)申請者が実施したいデモの態様について具体的に説明を行い、これに対する応答を求めていると評価できる場合には、その実現可能性および実現手段について、法令に従って正しい情報を伝えるべき義務を負っている」と、警察官の職務上の注意義務を明らかにした。それを怠れば、国家賠償法上の違法があり、その違法行為によって、主催者が意図した態様のデモを行えなかったという無形の損害に対して賠償義務があるとした。
要するに、市民が、やりたいと思ったデモを説明して、それをやるにはどうしたらいいのかと求めている場合には、警察官は、主催者が意図したかたちのデモができるように、それが実現できるかどうか、実現する方法は何か、正しい情報を教えなさいということだ。
「デモは、基本は届出制で、許可制ではない。許可が必要ならば、警察はこれも許可を得てくださいと教えるべきだ」と、原告の、いのうえしんぢ氏は言う。
●戦争前夜に一筋の光、「表現の自由」にもっと自由を
デモは、自由と民主主義を破壊する政治への対抗手段の1つであり、政治が民主主義のプロセスと立憲主義を否定すればするほど、進化する。
安保法案に反対した官邸前デモは市民革命と言われ、民主主義をクローズアップさせた。デモの主役は、官邸前行動の中心だったSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)であり、全国で参加した個人1人1人だ。
SEALDsの前身には、特定秘密保護法に反対する運動があった。特定秘密保護法で「知る権利」に制限がかかり、言論や表現の自由の規制が着々と進んでいる。安保法案の参院採決直前には、警察は警察車両で参加者をブロックするなど、国会前を埋め尽くさせないためとしか見えないデモ規制を敷いた。
自民党改憲草案は、現憲法21条の規定に「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という条文を追加し、表現の自由の制限を憲法上の規定にしようとしている。
安保法、憲法改正の動きに「戦争前夜」という批判があがるなか、サウンドデモ裁判の判決は、一筋の光明になっている。
いのうえしんぢ氏は、こう訴えている。「自分が言いたいメッセージを権力に妨害されたくない。いま、戦争ができる国づくりをすすめる安倍政権ですが、戦争と人権侵害はいつの時代も同時にやってきます。『表現の自由』を守ることこそが、戦争への抵抗ではないでしょうか?」
(2015年10月14日記)